文献で確認できる
日本で最初のビーフン

文=塩崎省吾

毎日の食卓をいろどるおなじみの食材、ビーフン。中国にルーツを持ち、お米を原材料に使うこのライスヌードルは、いつごろどのようにして日本にもたらされたのでしょうか? いろいろな文献を参考に、歴史を紐解いてみましょう。

目次

 

明治36年(1903年)の第五回内国勧業博覧会がはじまり

日本にビーフンが初めてもたらされたのは今から120年以上前、明治36年(1903年)に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会でした。

内国勧業博覧会とは、日本国内の物産を一箇所に集め、数ヶ月掛けて展示・顕彰する大規模なイベントです。諸外国に対して日本の国力をアピールし、出品された品々を輸入品目に加えてもらうための国際的な商談の場でもありました。現代で例えるなら万博に相当するでしょう。

明治10年(1877年)に東京の上野で第一回が開催され、明治14年(1881年)の第二回、明治23年(1890年)の第三回と、同じく東京・上野で開催され、明治28年(1895年)には京都の岡崎公園で第四回が開催されました。

山本松谷「台湾舘之図」
山本松谷「台湾舘之図」(明治36年6月10日『風俗画報』臨時増刊269号、国会図書館所蔵)

そして明治36年(1903年)。第五回内国勧業博覧会が、同年3月頭から7月末の5ヶ月間にわたって大阪で開催されました。当時の最先端の文物を紹介するこの博覧会で、特に注目されたのが台湾の風土を紹介する「台湾館」でした。

明治27年(1894年)から明治28年(1895年)に勃発した日清戦争で、日本が勝利した結果、下関条約によって台湾は日本に併合されました。つまり当時の日本にとって、台湾は近年になって版図に加えられた新たな領土でした。

台湾館は明治35年(1902年)の10月に起工し、翌年の2月に完成。3月の開催に間に合うことができました。

 

台湾館で展示された「米粉」(ビイフヌ)

台湾館には烏龍茶や砂糖など、台湾の特産物が多数出品されました。その出品物のひとつが、ビーフンでした。

同年に出版された『台湾館』という書籍では、「米粉」という漢字表記に「ビイフヌ」(ビーフン)という台湾での呼び方が掲載され、「米粉(ビーフン)はお米から作る麺の一種」と紹介されています。さらには底に細かな穴が多数あいた圧搾機に米の粉を原料にした生地を入れ、押し出すことで麺にする、ビーフンの製造方法の概要も解説されています。

米粉 方言 ビイフヌ

米粉は米にて製せる麺の類なり其の製法は白米を以て水に浸し石磨にて挽き細粉とし布袋に入れて水氣を搾り脚碓(カラウス)にて適宜の粘力を生ずるまで搗き揑り柔軟なる塊となし之を湯に煮て再び脚碓にかけ次に車秤(チャビン)と云へる底部に數多の細孔ある圧搾器に入れ直に釜中の沸湯に搾出し其適度なるを見て別に備ふる冷水桶に移し冷ゆるを待ちて竹簀の上へ排へ日光に乾かすものとす

伊能嘉矩『台湾舘』(明治36年、第五回内国勸業博覽会台湾協賛会、国会図書館所蔵)より引用

台湾新竹市の老鍋休閒農莊にて
ビーフンを圧搾する様子(台湾新竹市の老鍋休閒農莊にて筆者撮影)

また同博覧会で表彰された出品者の名鑑や人名録では、台湾の「桃仔園海山堡八陰庄」に住む「陳同」(陳仝)という人物が出品した「米麺」が、「褒状(ほうじょう)」を受賞したことも確認できます。台湾の『台湾百年歷史地図』というサイトで、当時の行政区画や地図を確認したところ、「八陰庄」という地名は見つかりませんでしたが、「海山堡」は現在の新北市と桃園市にまたがる行政区画でした。「米麺」はおそらくビーフンを指しています。台湾以外から「米粉(こめこ)」が出品されており、紛らわしいので「米麺」という表記にしたのでしょう。

 

台湾館に併設された台湾料理店

第五回内国勧業博覧会の台湾館には、台湾料理を提供する飲食店も併設されていました。出店したのは台北艋舺の歓慈市街にあった「富士見楼」という店でした。台湾で雇い入れた女性二人を伴って大阪の博覧会に出店したことが、当時の台湾の新聞で報じられています。

台湾日日新報 明治36年8月28日 3面 雑報
台湾日日新報 明治36年8月28日 3面 雑報(日台交流協会所蔵)

花はどこへ飛んでいった?

艋舺(萬華)の歓慈市街にある富士見楼は、大阪博覧会に台湾料理店を開設した。その際、本島から二人の女性を雇い入れた。博覧会は七月末ですでに終わり、一人の女性は台湾に戻り、オーナーも大阪を引き上げた。しかしもう一人の女性の消息がわからなくなってしまった。誰に聞いても行方が知れない。話によるとその女性は石坊街に住む許步蟾の娘で、詹註(13歳)という。彼女の親は雇い主に対し、娘の給与8円の精算をしつこく求めたが相手にされず、旧街の派出所にオーナーを訴え、〔※筆者注 娘の行方は一顧だにせず〕給金の返還を求めているという。(以上、筆者による和訳)

また書籍『台湾館』の《台湾料理店の景況》と題したレポートによると、台北撫台街二丁目の「石本喜兵衛」なる人物が許可を得て、現地の料理人や給仕を手配して台湾料理店を開設したことが報じられています。当時、神戸に同名の茶葉貿易商がいたことが他の資料で確認できるので、おそらく、同一人物でしょう。神戸と台湾料理の縁は、この時点までさかのぼることができそうです。

 

実際に食べることができたビーフン

台湾館に併設されたこの台湾料理店で、ビーフンを実際に食べることもできました。

前述したレポート《台湾料理店の景況》では、「日本人の口に合うようにアレンジを加えている」という但し書きのあと、台湾料理店で実際に提供されていたメニューも紹介されています。その中に「鶏絲白麺」「炒虾白麺」という二つの麺類が掲載されています。「白麺」という表記なので小麦粉を原料とする中華麺かもしれませんが、他の資料を踏まえるとビーフンを指している可能性が高いように思われます。

台湾館に併設された料理店は、チラシ・引札を配布していました。そのチラシにはメニューも記載されており、異なるデザイン・内容のバージョンが各地の図書館などに残されています。

例えばこちらは大阪市立図書館が所蔵するバージョンです。麺類に「鶏絲白麺」「炒虾白麺」が記載されていることが確認できます。

台湾料理店 口上及び品書(ちらし)
台湾料理店 口上及び品書(ちらし) (大阪市立中央図書館所蔵)

それらのひとつ、「古書 鎌田」という古書店がWEBサイトで2016年ごろに販売していた特選商品に、「焼三絲米粉」「三絲米粉」「焼鳩絲米粉」「鳩絲米粉」「粉炒虾米粉」と記載されたバージョンがありました。現在の所在は不明で、掲載ページも削除されてしまいましたが、当時公開されていた画像で「米粉」には「ビイフン」とルビが振られていることも確認できます。

「三絲米粉」に対する「焼三絲米粉」、「鳩絲米粉」に対する「焼鳩絲米粉」は、それぞれ汁ビーフンと焼ビーフンの関係と思われます。また「米粉」(ビーフン)を「米粉」(こめこ)と誤解させないために、「白麺」という表記も併用したのでは、とも考えられます。

博覧会には複数の飲食店が出店していましたが、その中でも台湾料理店は、かなりの人気店でした。書籍『台湾館』のレポートでは3月5日の開店から6月末日までの売上を紹介し、場内飲食店の中でも特に繁盛していると伝えています。

つまり明治36年(1903年)にはすでに台湾からビーフンが伝来し、日本人は口にしていたことになります。その伝来の地が関西だった点も興味深いですね。大阪の博覧会場は閉会後に天王寺公園として整備されました。市民の憩いの場として今も親しまれています。

 

明治末期から大正時代のビーフン事情

第五回内国勧業博覧会の4年後、明治40年には東京の上野で東京勧業博覧会が開催されました。そこでも台湾館が開設され、大阪と同様にビーフンが出品されました。

その後も明治43年3月名古屋での第十回関西府県聯合共進会、同年9月群馬県での一府十四県連合共進会、そして大正3年の東京大正博覧会などでも台湾館が開設されました。そのうち名古屋の共進会でのビーフン出品は未確認ですが、群馬県での共進会と東京大正博覧会でビーフンが出品されていたことは各種資料で確認できます。

明治から大正時代に掛けて各地で開催されたそれら博覧会を通じて、台湾のビーフンは日本でも知られるようになりました。さらに博覧会以外にも、明治末期から大正時代までのビーフンに関する資料がいくつか残されています。

明治39年に陸軍経理学校が出版した『糧食経理科参考書』には、台南陸軍の病院食レシピが付録についており、そこには《炒米粉(ツアビーフン)》の調理法が載っています。豚肉や野菜を炒め煮したところに、茹でて水を切っておいた「米粉」(ビイフン)を加え、汁気が米粉に浸みわたって水分がなくなったら完成というレシピです。材料は百人分の分量で記載されており、家庭向けではないのですが、当時の焼きビーフンがどのようなものだったのかを知ることができる貴重な資料です。

また、大正11年の『台湾総督府中央研究所工業部報告 第一回』では、輸出品としてビーフンに着目した「米粉(ビーフン)ニ就テ」というレポートが掲載されています。当時の台湾は日本の領土であり、米の重要な生産地でした。それを加工したビーフンも、食料自給率や諸外国との貿易に大きく貢献するであろう重要な物資だったのです。そうした前提の上で、同レポートではビーフンの製法や市場規模などが詳細に報告されています。

大正15年に出版された『裸一貫生活法:生活戦話』という起業マニュアルには、「台湾名物ビーフン」と題した章があります。当時は資本なしで始められる商売のマニュアル本が流行していました。その商売のひとつとして、「中華そばに似ているが、味のよさはその比ではない」とビーフンを紹介し、屋台での行商を勧めています。

明治時代に台湾からもたらされたビーフンが、昭和に入る前から日本にある程度浸透していたことが、これらの資料からおわかりいただけたことでしょう。日本とビーフンのつながりには、120年以上もの歴史がありました。ビーフンを召し上がる際にそんな歴史を思い出していただけると、より一層の味わい深さを感じていただけるのではないかと思います。

塩崎省吾

塩崎省吾

1970年生まれ、静岡県出身。
ブログ『焼きそば名店探訪録』管理人。
国内外、1500軒以上を訪問して焼きそばを食べ歩く。
ソース焼きそばだけでなく中華系やあんかけ焼きそば、焼きうどんや皿うどんなども守備範囲。
大衆酒場や駄菓子屋さんなど、地元民しか知らないような穴場の焼きそばが大好物。
本業は、日本最大級の実名型グルメサービス「Retty(レッティ)」のエンジニア。
著書に、『ソース焼きそばの謎』『あんかけ焼きそばの謎』(ハヤカワ新書)がある。