エピソード60
小さいころからケンミン焼ビーフンが大好きでした。中学生のころ、ろくに料理が出来なくてもフライパンと(とりあえず)少量の水があれば出来る手軽さ、お湯を大量に沸かす煩わしさもなくお腹が空いたらすぐ食べられるところがお気に入りでした。
大人になってからの焼ビーフンとの思い出は災害と深いつながりがあります。
2011年3月11日東日本大震災の時、2019年の台風の時、幾度となく訪れる災害時にカップラーメン・袋ラーメンがスーパー・コンビニ店頭から姿を消しました。でも私は知ってるんです、ケンミン焼ビーフンは麺コーナーにあるだけではなく中華コーナーにもある(場合がある)ことを!
なので災害の混乱時に焼ビーフンが買えなかったことはありません。必ずある安心感(これ本当に重要ですが、正直他の人に教えたくありません)。
東日本大震災の時も電気が止まりました。当時、輪番で電気が止まる時間が分かっていました。冷蔵庫を開けると庫内の冷気が逃げてしまい、冷凍食品などが解けるため冷蔵庫を開けることもできず、電気を使う電子レンジも使う事が出来ず…の中で中学生のころ大好きで食べていたビーフンのことを思い出し、暗闇でフライパンとコップ一杯の水をかろうじて用意して、野菜もろくに切らず、手でざっくり裂いたものをフライパンの中に投げ込み、ロウソクの明かりのみで3分時間が経つのを、家族みんなで眺めていました。
熱いお湯も扱わないので、お腹が空いた子供たちを待たせることなくすぐ調理でき、カップラーメンの様な熱いスープがないので当時保育園児だった子供たちが暗闇で容器をひっくり返す心配もなく安心して食べさせることができました。
家族全員で「おいしいねー、しかも野菜も入って栄養もバッチリ」と、当時3月とはいえどまだ春スキーに週末行こうとしていたころだったので気温は肌寒く、暖かい食事に感謝して食べた記憶があります。しかもビーフンは米から出来ているからか腹持ちもいいんですよね(たぶん)。
焼ビーフンに出会った頃の私と同じ中学生になった息子が「腹持ちいいから、大量に作らなくてもいいよ」と言いますが、我が家の台所には常にストックの焼ビーフンが8袋はあります。災害時にはカップラーメンと思っている方も多いですが、災害時こそ「ケンミン焼ビーフン」我が家はこれ一択です。
最近では災害じゃなくてもストックが次々無くなります。
エピソード59
その昔、私は超が付くほどの野菜嫌いの子供でした。食べられる野菜は数えるほどで、いつも食卓に上る食事を野菜だけ残しては母に叱られていました。
そんな頃です、テレビのコマーシャルで、あのインパクトのあるコマーシャルが流れ出したのは。
「お母ちゃん!ケンミン焼ビーフンにピーマン入れんといてや、なーて。」ちょっと不気味な子供の声、独特のフレーズに一度聴いたら、忘れられなくなりました。
「うんうん、ピーマンって、あの苦みだもん、やっぱりそうだよね〜。」とコマーシャルを見るたびにその子供の声に共感していたものでした。
が、不思議なもので、人は「入れるな!」と言われると、入れてみたくなるもの。何度もそのコマーシャルを見ているうちに「そんなに嫌がるピーマン入りのビーフンって?」と気になるようになってきました。
そんなある休日、母が出かけることになり、自分でお昼を作ることになりました。
そこで、戸惑いながらいつものビーフンにピーマンを入れてみたのです。が、相手は手強い、独特の苦みを持つピーマン!勇気を振り絞って、恐る恐る口にしてみると…「あれ?」苦みが感じられなく、ビーフンの味にすごく合っているではありませんか!
「美味しい!!!」思わず、口に出していました。何か未知の世界を知ったようなちょっとわくわくした気持ちになりました。それからです、食べられなかった野菜に挑戦してみようと思いだしたのは。
私の食べられる野菜の種類が一つ、また一つと増えていきました。今では、「野菜ソムリエ」の資格を持つ私です。
エピソード58
「先生、何年ぶりですかねぇ。ずいぶん老けましたねぇ。」先日、近くのスーパーで買い物をしていると、中年のオヤジから突然、声をかけられた。失敬な奴と思いながら、よくよく顔を見ると、鋭い目つきとそり込みから、多少、歳を取ってはいるもののK君だ。
平成元年、私は新採としていきなり、しばしば警察の世話になるヤンキー学校に就任した。授業中は常に蜂の巣をつついたような大騒ぎで、ガムを噛んだり、ウォークマンを聴いたり、中にはタバコを吸う生徒までいる始末。
私はそのクラスの担任だったのだが、クラスに派手なそり込みを入れたヤンキーのボスでもあったK君がいた。喧嘩っ早く、停学のたびにK君の家庭訪問に行く羽目になったのだが、なんと8畳1間に8人家族で、下に5人の幼い弟や妹もいた。両親は病弱で生活は困窮を極めていた。
当然満足のいく食事もろくにとれず、時には道端の雑草をおかずにすることもあったという。あまりにも気の毒に思った私は、K君に「何か食べたいものはあるか」と聞くと、「焼ビーフンが食べたい」と言う。実は私も子どもの頃、近くの定食屋で食べて以来焼ビーフン好きになったのだが、K君も小さい頃に中華料理屋で食べた焼ビーフンが忘れられないからという。
私は早速家に戻り、K君のために特大の焼ビーフン弁当を作った。しかし、K君は「先生にそんな施しを受ける理由はない」と強く拒んだ。実は当時、クラス内でいじめが頻発しており、その対応に四苦八苦していた。そこで、K君にいじめをなんとかしてほしいという交換条件を出して、了解してもらった。ヤンキーのボスでもあったK君の力は絶大で、それ以後いじめがピタッとなくなったことを覚えている。
久しぶりの再会で昔話に花が咲いたが、帰り際、K君はこうつぶやいた。「あの時、まさか焼ビーフン弁当を持ってくるとは思いませんでしたが、本当に美味しかったです。あの交換条件もビックリでしたけど、先生には感謝です。」
むしろ私の方が感謝である。というのもあの後、いじめがなくなったことで、クラスの雰囲気が格段に良くなったからだ。教師を続けていく大きな自信の一つにつながったと思う。久方ぶりに明日からしばらく焼ビーフン弁当を作ろうかなと思っている。
エピソード57
その日幼い息子は駄々をこねていた。しかも高熱を出しながら。そう病気であるにも関わらず駄々をこねるので、体調と言う面からも心配で一体どうすれば息子の機嫌を治めることが出来るのか困っていました。
そう、実は今日は大阪の海遊館にジンベエザメを見に行く予定で、それを魚が大好きな息子は大変楽しみにしていたのですが、運悪く風邪で熱を出してしまい水族園行きは中止となるも、それでも行きたいと駄々をこねる始末。
するとであった。夫が息子に「お腹は減ってるか」と尋ねました。すると熱にも関らず息子は「減ってる。なにか食べたい」と言い、「おかゆにするか」と夫が尋ねると「おかゆは嫌」と言う。
ならばと夫はなにか思いついたようで息子に「よし、お皿の上の水族館に連れて行ってやる」と言いようやく息子の駄々は治まりました。
しかしお皿の上の水族館とは一体なんなのでしょう。私は息子が期待外れだったとまた駄々をこねだすのではないかと不安に思いながら、夫を見守っていました。そしてしばらく後夫がキッチンから料理を終えて出て来ました。
息子は熱の身にも関らずワクワクしながら料理を待っています。そして夫が息子に差し出したのが焼ビーフンでした。
息子が怪訝な表情で尋ねます。「ねえ、父さんこれの一体どこがお皿の上の水族館なの?」すると夫は焼ビーフンの具材を指差しながら言いました。
「ほら、よく見てごらん。これはイカ、これはエビ、そしてこれはカニカマ。どうだ、海の仲間が熱になった君を元気づけようと水族館からやって来てくれたんだぞ」すると息子の目はキラキラと輝かせて「本当だ、お皿の上の水族館だ」と焼ビーフンを美味しそうに食べて行きます。
お皿の上の水族館のお陰か翌日には息子の熱も引きました。息子にとってはもしかすると水族館よりも大切な思い出になったかも知れない一日でした。
エピソード56
私の父は繊細な手先が必要とされる血管外科医であった。しかし、日常生活においてはとことん不器用で、料理など一切できなかった。そんな父は、母が料理をできないとき、自身の大好物でもある手軽に簡単で作れる焼ビーフンを作ってくれた。異様に長さも太さも違うニンジン、不揃いな細切りピーマン、途中で諦めて手でちぎった形跡のあるキャベツ、そして適量以上に入っている豚バラ肉。決して見た目は美しくないかもしれないが、食感もオリジナリティあふれるそのビーフンは密かに私のお気に入りであった。無論、恥ずかしくて父にその思いを伝えることはなかった。
そんなチャーミングな一面をもつ父は、数年前突如不慮の事故で亡くなった。それ以来、自ずと焼ビーフンを食べる機会も減っていった。
私は、今年ついに社会人になり、念願の一人暮らしを始めた。しかし、父親譲りの絶妙な不器用さとなれない一人暮らしが相俟ってか、部屋の整理整頓もままならず、目標であった自炊などもってのほかであった。
そんな中、緊急事態宣言が発令された。私の住む場所は、都心部から離れており、家の周囲にレストランは数軒しかなく、昨今話題の出前サービスなども到底ない。仕方なくスーパーに足を運んだところ、懐かしいパッケージの焼ビーフンを発見し、気づくと野菜や豚肉などと一緒に買い物かごに入れており、次の瞬間には会計を終え、マイバッグの一番上に割れないよう大切に袋詰めしていた。
そもそもピーマンや人参の切り方も、わからない私は、狭いキッチンの壁に無理やりスマホを立てかけ、ネットで検索した野菜の細切りやら短冊切りを見よう見まねで真似した。「これであってるのかな」、時折独り言を交えながらも調理を進めていくと、思いのほか短時間で完成した。まずは一口。口に運んでみると、美味しさと懐かしさで顔が綻んだ。
「そうだ、年末のタイ旅行で買ったナンプラーをかけてみようかな」、そう思い立った私は冷蔵庫から取り出したナンプラーを慎重に回しかけてみた。一気に南国の香りが漂い、焼ビーフンの奥深さと無限の可能性を知った。
そういえば、父はタイ料理が大好きだった。今度のお盆、父が里帰りした際に教えてあげよう、そう心に決めた。
父との新たな思い出になりそうだ。
エピソード55
初めて料理デビューをしたのは小学3年生の時でした。簡単だからと母に勧められて家族に焼ビーフンを作りました。ビーフンの裏に書いてある作り方をしっかり読んで、お肉、ビーフン、野菜の順に入れ、水を入れて3分、フライパンの前で美味しくできるかうろうろしていたそうです。
普段は寡黙で子供の時は怖かった父が、満面の笑みで「美味しい!」と言ってくれたことを昨日の日のように覚えています。それ以来、料理が大好きになり、誰かのために作る嬉しさを学びました。
先日、久しぶりに実家に帰り、父に料理を作る機会がありました。何を食べたいか聞いたところ、「ビーフンが食べたい」と。簡単で私が作らなくても作れる料理なのに、、、、と思いながら作りました。
初めて作ったように、お肉・野菜を入れて、あっという間に出来上がりました。でも食卓を家族で囲み皆で食べるビーフンは父だけでなく私もとっても懐かしく、どこのレストランで食べるよりも食事の楽しさを再度確認した日でした。
食が細くなってきた父も母も「本当に美味しいね、やっぱりこれが一番」と普段の2倍は食べてくれました。
働いてから高いレストランにも連れて行ったり自分なりに親孝行と思うことをしてきたつもりでしたが、この食べっぷりや笑顔は本当に久しぶりでした。初めて作ってから20年以上経ち、父もすっかり年をとり、頑固だった人がまるくなり時々寂しく感じていました。人が年を取ることは当たり前で、いつか両親も亡くなりますが、1日でも共に時を過ごし、またケンミン焼ビーフンを作ってあげたいと思います。
我が家にとってケンミン焼ビーフンは家族の思い出を振り返らせてくれる時間、そしてほっとした時間をくれるスーパーフードです。これからも変わらない味をずっとずっとお願いします。
エピソード54
まだ私が就学前だった頃、歳の離れた姉が作ってくれるビーフンがとても旨く、そのおかげで私は苦手な人参を食べられるようになった。本気で姉のことを「料理の天才だ!」と思っていたほどだ。
とりわけビーフンの鉄鍋に貼りついた部分が好きで、こそげながら食べたことを憶えている。
そんなある日、私の小学校入学と姉の大学進学を機に、大阪から神奈川に単身赴任していた父の元へ引っ越すことになった。当時の関東圏にはビーフンを販売している店舗がなかったようで、姉の絶品ビーフンは食べられなくなくなったが、姉も私も新しい環境に気を取られ、そのままビーフンから遠ざかっていったのだった。
月日は流れて私も社会人となったある日、学生時代の仲間で集まる機会があった。さんざん飲み食いした後、そろそろお開きという頃に、誰からともなく「まだ食べ足りない」という声が上がった。
「それなら家で二次会しよう」という幹事を引き受けてくれていた女子の一言で、帰路が同じ方面だった数人が彼女の下宿先に向かうこととなった。そこで彼女が手早く作ってくれたもの、それはビーフンだった。
20年ぶりのビーフンを口にした瞬間、私の体に衝撃が走った。記憶に埋もれていた幼少期が、姉の味が、突然鮮やかに蘇ってきたのだ。私は、ただただ皿が空になるまで夢中で箸を動かし続けていた。
後で知ったのだが、ビーフンを振る舞った彼女は、嬉々として食べる私を見て「これは自分に気があるな」と思ったそうだ。私は私で、その時はまだ麺に味がついている由など知らず、姉の味を再現した彼女に尊敬の念を抱いたのだった。
さらに月日が経ち、今の我が家には「ビーフンあるある」が存在する。それは、ビーフンを作ると必ず妻が「お父さんは、お母さんのこの味に惚れたのよ」と言うことだ。さすがに、十数年も聞き続けてきた子供たちは相手にもしないが。それに私にしてみても、彼女の味に惚れたのではなく姉の味、正しくはケンミン焼ビーフンに胃袋をガッチリつかまれただけなのだ。
しかし、このあるあるには、素直にうなずいておくのが正解なのである。
エピソード53
初めて焼ビーフンを食べたのは21歳の頃、もちろんケンミン焼ビーフンです。
親との関係がしっくりしなくて毎日喧嘩ばかり。一生懸命お金を貯めて初めての一人暮らしをしたのがその頃です。仲良し親子ではなかったので母から料理を教わったことも無く最初の頃は卵かけご飯ばかりでした。意地を貼って親に頼らずやろうとしても野菜を使った料理なんて出来る訳もなく、栄養失調になるんではないかという日々。
そんな時スーパーで焼ビーフンを見つけて、美味しそう!と初チャレンジ。豚肉・キャベツ・人参があれば、調味料は無くても、料理出来なくても、美味しく出来たので感動!エビやイカなんかは入れなくても美味しいダシが出るので大満足でした。
その当時の私の数少ない野菜料理の中に含まれる焼ビーフン。その後、母に教えてあげて初ビーフンだった母も焼きそばより美味しい!と感動。段々母と父との距離も狭まり2年で家に帰りました。
子供達が小さい頃は野菜嫌いだけれどピーマンやニラも入れて野菜一杯で作っても焼ビーフンだと食べてくれてもうかれこれ30年以上の私と焼ビーフンとの関係です。
そしてこれからは娘が結婚して、また引き継がれていくのかなと思うと長い歴史を感じます。
エピソード52
就職を機に田舎から上京することになり、一人暮らしを始めることになりました。
料理洗濯掃除といった家事を一切してこなかったわたしを、母が心配し、上京するまでの期間に一人暮らしの大特訓がスタートしました。
栄養士の母が特に心配したのが私の健康。カップ麺やコンビニ食ばかりで身体を崩すんじゃないかと気にして毎晩夜ご飯は簡単に作れる料理を教えてくれました。ハンバーグやサバの味噌煮、肉じゃが、どれも調味料のさじ加減が覚えられず、失敗したり火の通し加減を間違えたりで、母の味には近づけず苦労していました。
そんな時、これなら簡単に作れて野菜もたっぷり摂れるから、と教えてもらったのが焼ビーフンでした。どんな野菜でも一緒に炒めたらちょうどいい具合の味付けになるし、豚肉や魚介以外でもちくわや蒲鉾にも合う、とにかく万能料理でした。
7年経った今…仕事終わりに疲れて帰った日、今日のご飯はどうしよう?と考えながら冷蔵庫を開けます。
そろそろ野菜の賞味期限が近づいてるなぁ。お米を炊く気力はないなぁ。時短料理でさっと食べてすましたいなぁ。
そうと決まれば冷蔵庫にある野菜をさっと水洗いして、お肉、そしてビーフンをフライパンに入れて水をかけたら蓋をします。今では慣れたもので時間を計らずとも体内時計で出来上がりがわかります。
母に教えてもらった野菜をたっぷり摂れるビーフンは、今でも大好きで健康の源です。
エピソード51
お昼は焼きそばとかでちゃちゃっと済ませたい。。と思うも当時2歳の娘は小麦粉、卵、乳アレルギーがある。
わたしと4歳の息子だけで焼きそばを食べるとは、なんかちょっと申し訳ないし、欲しいと言われて泣かれたら悲しすぎる。それに娘の分のメニューを新たに考えなければならない。
当時甲子園に住んでいた。駅の改札の上に目をやると「ケンミン焼ビーフン」の看板が。
「これ、もしかしたらイケるんじゃ。」とすぐにスーパーの乾麺売り場に行って食品表示を確認する。
娘は調味料の小麦は食べられるので、これだ!と思った。さっそく購入してお昼にいただく。
実家では食べたことがなかったので、こんなにも簡単にお野菜もお肉も美味しく食べられるなんて思ってもなかった。しかもアレルギー用の麺は値段がはることが多いけど、とても手に取りやすいしどこにでも売ってる!
その時から、我が家の献立の力強い味方となりました!!
Copyright (c) KENMIN FOODS co., ltd. All rights reserved.